「(部下に)いくら指導しても、一向にデキルようになりません」その対処方法は?
いつも部下に「ダメ出し」していませんか?
「ダメ出し」をすれば、奮起してやってくれるのではないか。
そのような点もあるかと思います。しかし、本人なりに考え抜いた上で行動を起こしたのであれば、その言動は“勇気くじき”になっているかも知れません。
「ダメ出し」は、できていない部分に注目している訳です。「ダメ出し」する前に、本人の行動の目的と意図を把握するとともに、「できていること」に注目してはどうでしょうか。
上司:「~については随分成長したね」
部下:「はい」
上司:「~については、私の期待するところではまだ十分ではないと思うのだが」
部下:「そうですか」
上司:「~について、そのような行動をとった意図は何かな?」、「その行動で、何を得ようとしたのかな?」
アドラー心理学では「勇気づけ」を重視しています。勇気づけとは、「さまざまな対人関係における困難を克服する活力を与えること」であり、決して、本人の言動・行動を手放しで褒めたたえることではありません。
「人の行動には目的がある」という点を踏まえて部下と関わってみてはどうでしょうか。よい点に目を向けると、よい点の頻度がますます増えていって、ダメな点を駆逐できるとアドラー心理学では考えます。
明日から、「ダメ出し」の文化をやめて、小さくてもいいので、できたことを認めてみてはいかがでしょうか。
「私は人見知りなので、人前で話すのは苦手なんです」
その対処法・・・
ズバリ、自分の性格を言い訳にして、目の前の課題から目を背けることは自分自身を小さくしてしまい、自ら可能性の芽を摘んでいるとも言えます。
苦手でもいいじゃないですか。その理由を、わざわざ人にさらけ出さなくても。。。
「自分は人見知りだから~できない」という言葉を発することで、目の前にある課題(人脈を広げる、教えを乞う、見識を広げるetc.)から逃げようとしているのではないでしょうか。
前にも紹介しましたが、自分を低くみること(自己軽蔑)は、自分自身を小さくするだけではなく、相手を軽蔑することにもつながりかねません。
「私は人見知りだから、うまく話せないけど、指名したのはあなただから私は悪くないよね。指名したあなたも悪いんだよね」というように。
アドラー心理学では、自分のライフタスク(人生上の課題)に直面した際に、「自分の性格(アドラー心理学ではライフスタイルと呼びます)が、~だから無理だ」といったように性格を言い訳にせず、向き合い方を変えて課題に挑むように促しています。
「人見知り」という性格のとらえ方を変えてみてはどうでしょうか。
「私は人見知り」という方は、人のことをよく見て、人の話しをよく聴いている方です。どこでもすぐに、自分のことを話せなくても、相手のことを知ろう、理解しようという意識があるとも言えます。これがあなたの良いところではないでしょうか。
周りから「それって、常識だよね~」と言われると、ムカッとしてしまいます。こんな自分はダメでしょうか。
大丈夫、ダメじゃないですよ。
やたらと、「普通」、「常識」、「あたりまえ」という言葉を用いる人がいます。「普通、そうだよね?」、「それが、常識でしょ?」を言葉どおりに解釈すれば、「あなたの考えは一般的ではない」と批判していることになります。そして、その“普通”は本当に普通なのか、その“常識”は本当に常識なのかという問題が出てきます。
アドラー心理学には、「私的論理」という概念があります。これは、人であるかぎり、それぞれが特有の個人的な論理 - 「何を信じているのか」、「何を望んでいるのか」といった信念を持っていることを示しています。その信念があるからこそ、私たちがすること ― つまり、あらゆる行動や感情の理由がつくのです。
私たち人間は主観的な生き物です。物事の理解のしかた、認識のしかたには時折あやまちや誤解がひそんでいますが、私たちはそれに気づきません。そこには、無意識的な信念、思考、思想、理念、目標や意図といったものがふくまれており、人によって微妙に違うものです。
ムカッとする気持ちはわかりますが、お互いの私的論理が違うんだと解釈してください。ただ、もちろん、時事的な話題や専門知識などを知らないと、困ることもありますので、素直に受け入れる部分も残しておきましょう。
「自分には、しょせん大した学歴がないから無理だろうな・・・」とためらってしまうことがあります。こんな自分を変えたいと思っています。どうすればよいでしょうか?
「しょせん、いい大学を出ていないから・・・」、「私は、しょせん~だから・・・」などと自分をおとしめていませんか?
アドラー心理学ではこれを自己軽蔑と呼んでいます。
自己軽蔑をする人は、「私って、この程度のもの・・・だからそれ以上は期待しないで」というように、防衛線を張っていると考えられます。うまくいなかいことに罪悪感を持ち、その責任から逃れるために、手段としての自己軽蔑を使用しているのにすぎません。
シカゴ・アドラー心理学大学院の創設者のひとりであり、代表的なアドレリアンであるバーナード・シャルマンはズバリこう言っています。「自己軽蔑を用いる人は、自分自身を非難し、責めるフリをしているに過ぎない。この自己軽蔑を軽視し、自己を過小評価する行為は、他者からの攻撃や罰から逃れる助けをするであろうから・・」と。
前回お話した躊躇(ちゅうちょ)する態度と同じです。例えば、何か仕事を依頼された時に、「一応、やってはみますが」と前置きする人がいます。これは「やってはみますが、うまくいくかどうかは期待しないでください」という意味です。結果、うまくいかないと、心のどこかで相手のせいにしてしまいます。「あなたが、そんな無理を強いるからだ」、「私に頼むからだ」と他者を軽蔑してしまうわけです。
自己軽蔑と他者への軽蔑傾向は表裏一体のものといえるでしょう。つまり、自己軽蔑は自分を小さくするだけではなく、相手を軽蔑していることになるのです。
アドラー心理学では、自分のライフタスク(人生上の課題)に直面した際に、「自分の性格(アドラー心理学ではライフスタイルと呼びます)は、~だから無理だ」といったように性格を言い訳にしない、向き合い方を変えて課題に挑むように促しています。
どれだけ他者を軽蔑し、自分自身を軽視したとしても、現実は変わりません。それより、いまある現実の課題に少しでも向き合うことが何より近道です。少しの勇気を持ってみましょう。
私は応援しています。大切なあなた自身のために。
「いつも、一歩を踏み出す勇気がなく、後で『やればよかった』と後悔してしまいます・・・・」
「失敗してしまうのでないか」という迷いで、行動を躊躇(ちゅうちょ)してしまうこと、ありますよね。私も、アドラー大学院留学前に、初めてワークショップの話をいただいた時、自信がなかったので「もう少し待ってください」と返答し、その場をしのいだことがありました。帰宅後、「引き受ければよかったかな」と多少後悔しました。
再び、お話をいただい際にも、まだ自信がなく「一応、やってはみますが・・・」と、前置きしてから引き受けました。幸いにも、そのワークショップはオファーいただいた方のご協力もあり、無事開催することができ、「引き受けてよかった」と素直に思いました。
アドラー心理学を学んだ今からすると、この「一応は、やってはみますが・・・」という言葉の裏には、「うまくいくかは確証できないので、あまり期待しないでください」という意味が隠されていることがわかりました。これは、引き受けたように見せながら、「私に声をかけたのはあなただから、あなたも失敗した時のことを想定しておいてください」と、機会を与えてくれた相手に責任転嫁するとても失礼な言葉とも言えます。
このような態度のことを、アドラー心理学では“躊躇(ちゅうちょ)する態度”と呼んでいます。約80年前、アドラーは「安全に、また確実に成功する確信がなければ、積極的に行動を起こさないほうを選ぶ人」の存在に気づいていました。人生で直面する課題が大きければ大きいほど、それから距離をとり、真正面からとりくむことを避けようする態度です。
前回のコラムで触れた『不完全である勇気』を持って長所に注目し、「軽はずみではなく、よく考えて行動するところが自分のいいところだ」ととらえ、チャンスを与えてくれた方に感謝しながら一歩を踏み出してみてはどうでしょうか。一歩踏み出すことは、今とは違う未来に行くこと(変化)です。つまり自己成長につながっていくということになります。
アドラーは次のようにいっています。
「社会生活において、明確で具体的な成功を妨げるものは、いったい何なのか。もし、そのように私たちが自問したならば、それは現状を維持すること、変化しないことだというだろう。これこそが“躊躇する態度”である」
「共同体感覚」
国際アドラー心理学会において、私の先生でもあるJohn Reardonのプレゼンに行きました。共同体感覚とは、よく「所属感」、「安全感(信頼感)」、「貢献感」として世に伝わっていますが、英語ではそれぞれBelonging, Secure, Significanceとして表現されています。これらの英語をどのように日本語に訳すかは、私にとってはあまり問題ではありません。大切なのは、その文脈や意味をしっかりと抑えることで、言葉から来る意味で捉えてしまうと大きな誤解を生んでしまいます。 特にアドラー心理学の用語は誤解されやすいです。
例えば「相互尊敬・相互信頼」という用語がありますが、これは「他者を尊敬し、自身を尊敬すること・他者を信頼し、自身を信頼すること」なのですが、私はミネソタ・アドラー心理学・大学院に留学するまで大変な誤解をしていました。言葉上での意味として「相互尊敬・相互信頼」を捉えており、それは「お互いに尊敬しあう、お互いに信頼しあう」ものだと考えていたのです。 このように捉えてしまうと、対人関係において全く異なったアプローチをすることになります。それは、相手に期待をし、相手を動かそうとするのです。例えば「私はあなたのことをこれだけ尊敬・信頼しているのに、あなたは私を尊敬・信頼してくれていない」と、対人関係におけるトラブルを生む入り口となるわけです。
話を戻しますが、この「共同体感覚」は、実に説明に困るものです。実際に、アドラーは、Belonging「所属」, Secure「安全」, Significance「貢献」という用語を使用はしているものの、この3つが共同体感覚だ、とは一切言っていないのです。こういう所は、大学院生時代にJohnのクラスで教えてもらったことも多く、今回は久しぶりのJohnの講義を聞けたことを嬉しく思っています。
「いろいろなテクニックを試したのですが、人前に立つとうまく話せないんです・・」
うまく話すためのテクニックも大切ですが、一度、次の点を確認してください。
あなたは「人前でうまく話せない自分はダメだ」と思っていませんか?「うまく話さなければならない」と。
人間は「完全性」をめざす生き物です。しかし、私たちは神ではないので(神でも同じかも知れませんが)、その完全性に到達することは不可能ではないでしょうか。かっこう良く言えば、「人生とは、永遠に完全性の実現へと向けられた途上だ」ということです。私たちは、大なり小なり不完全な存在です。つまり、この不完全性を受け入れ、これと向き合うことが必要となってきます。
「人前で話しをして、聴衆の方々の反応はどうでした?」 あなたは、自分の思い通り話すことができなかったこと、声が上ずってしまったことを悔やんでいるかもしれませんが、聴衆の皆さんはどうだったのでしょうか。自分がうまく話せたかどうかより、聞き手が理解できたかが大切ですね。
短所に注目すると、その短所が誇張されて際立つようになります。長所に注目すれば、脳がその長所を活かそうとする能力が増大します。先の例で言えば、「自分の思い通りには話せなかったけれど、相手の反応をみると伝わっている部分もある」とできている部分にも注目することが大切です。
失敗ばかり気にしていると、「また失敗してしまうのではないか」という意識が増大して、本当に失敗してしまいます。その結果、「学習性無力感」(失敗を重ねるうち、たとえ簡単に成功できることでもやらなくなってしまうこと)に陥ってしまうかもしれません。
最後に、もちろん、「不完全であること」を言い訳にしてもいいということでありません。「何でも、不完全でもいいんだ」を言い訳にすると、責任回避の手段になってしまうことがありますので、この点はくれぐれもお忘れないように。
大人も勇気づけられると嬉しいものです
私の知り合いの男性で、最近料理にはまっている男性がいます。その方に、何故、料理にはまっているかを聞いたところ、「妻が急用で夕食が作れなかった時に、家にあった材料で焼き肉定食を作ったことがきっかけです」と答えてくれました。そして、帰宅した奥さんが「あ~、おいしそう。ありがとう」と言われ、「やって、よかった」と思い、さらに、奥さんが、お味噌汁を一口すすった後で、「あと小さじ1杯の塩を加えるともっと、おいしくなるよ」と言われたことで、「今度は、上手く作ろう」とやる気スイッチが入ったとのことでした。
「あの時、妻から『ありがとう』がなく、『味が薄い!』などと、ダメ出しされていたら二度と料理をしなかったと思います」と話されていました。今では、朝食、夕食の準備の他、娘さんのお弁当まで作っていらっしゃるようです。
この話にある「おいしそう。ありがとう」が勇気づけの言葉です。勇気づけの基本は、相手に「ありがとう」や「うれしい」の感情を伝えることです。ただし、状況によっては、失敗を指摘し、誤りをただし、改善や反省を促すことも必要です。
勇気づけという日本語の語感からは、「もっとがんばれ」や「やればできるのに、何故やらないか」など叱咤激励の言葉を想像してしまいがちですが、状況によっては勇気づけと作用しないことがあります。いわば、マイナスの状況をプラスに変えてやろうとする作用ではなく、あくまでプラスを見つけて、ともに積極的な評価を共有しようとする作用です。
勇気づけは、あくまでもそれをおこなう側の問題です。勇気づけをされたかどうかではなく、勇気づけをしたかどうかです。
パートナー、友人、部下・後輩に勇気づけをしてみませんか。
『私は人見知りなので・・・・』
「私は、人見知りなので、人付き合いが苦手です」と、かつての私はよく口にしたものです。こういうことによって、さらに自分自身の対人関係の劣等感を増大させていきました。しかし、使用の心理学を知った私は、「人見知りをどう活かしていくのか」という新たな見方ができるようになりました。
アドラーはこう言っています。
『重要なことは、人が何を持って生まれたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかである』
「人付き合いがうまくいかないのは、自分が人見知りの性格だからだ」という考え方は、“個人がもっている特性や能力を発揮する”という視点においては、遠回りな考え方です。
重要なことは、『何を持って生まれたかではなく、与えられたものをどう使いこなすかだ』です。「人付き合いがうまくいかないのは、自分の性格位のせいではなく、使い方が間違っているからだ」と考えます。
例えば、「私は、人見知りだからこそ、関係ができた方とはじっくりと深く付き合える」と考えられるようになりました。その結果か、相手からは「彼は、最初遠慮気味だが、一度付き合うと、腹を割ってオープンマインドで付き合える人だ」という評価を生み出すことができたと思います。
使用の心理学とは、「短所と思っていた特徴を、どのように長所におきかえられる」ということです。たいていの短所は、かならず長所におきかえられます。この前向きな発想こそが、人が成長するための正しい道なのかもしれません。
【運営】
一般社団法人日本アドラー心理学協会
〒 810-0001 福岡市中央区天神二丁目3番10号 天神パインクレスト716
TEL092-577-0025 FAX092-518-1354
※講座の教室と住所が異なります、ご注意ください。